理数科目の授業時間増を 学力低下で理数系学会が改革案

 学力低下理科離れ問題の解決に向け、日本数学会や日本化学会など理数系学会でつくる「理数系学会教育問題連絡会」(世話人・浪川幸彦名古屋大教授)は27日、理数科目の授業時間を増やすことなどを盛り込んだ改革案を中央教育審議会に提出した。

 同連絡会は「諸外国は理数教科を強化しようとしているのに、日本は学習内容を減少させている。日本の理数教育に壊滅的な打撃を与える恐れがある」と訴えている。

 現行の学習指導要領について同連絡会は「小中学校の算数・数学、理科の授業時間を大幅に削減し、暗記に偏重した教育へと追いやっている」と指摘した。

 特に中学校での悪影響が懸念されるとして、改革案では一刻も早い授業時間数の回復を要望。自然科学の専門知識を持つ教員の養成や、教員を増やすなどして研修や教材開発に取り組めるようにすることも提言した。

 また中学校理科で「仕事」や「イオン」「進化」といった基本概念を削除したため、高校での学習が困難になっているとして、学問の基本を踏まえた系統的な指導要領を編成するよう求めた。(共同)

「システムや枠組みを用意するのは簡単だけれどもそれに沿って誰がやるのかが問題」
という某氏の言葉を思い出した。
例え「学問の基本を踏まえた系統的な指導要領を編成」したとしても、誰もそれに従わなかったらそもそも意味がない。

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そんなことより、「小中学校の算数・数学、理科の授業時間を大幅に削減し、暗記に偏重した教育へと追いやっている」というのはどういうことだろう。
「理系科目の授業時間短縮」と「暗記に偏重した教育」に因果関係はあるんだろか。
そもそも「暗記に偏重した教育」って何を指しているのだろうか。
 
「教育」というのは使いにくい言葉だと思う。
それはなぜかというと、こういう文脈で使われる「教育」は「教育を行う者」と「教育を受ける者」がお互いにやってるその行為をなんとなーく
指してる感じがして、その「感じ」として使われている限りその真意がくみ取れないからだったりする。
一呼吸おいて、「教育を行う者」からすればそれはどういうことなのか、「教育を受ける者」からすればそれはどういうことなのか、
を考えないといけないと思う。
 
教育を行う側の持つべき理想的な教育観として「暗記させるだけではだめ」ということが確かにある。
魅力的な教師、教養あふれる教師は今ものすごく少なくて、文部科学省の管轄内で行われる「教育」という
行為/現場において、そのような教師に出会えることはほとんどないと思う。教職課程をとってみてこのことはより強く思われた。
だから魅力的な教師を要請/養成するのが大切だということはまさに大切だと思う。
 
教育を受ける側からしてみれば「暗記」に重きを置くことが求められているのも事実だったりする。
いや、求められているのではなくて、実はこの「暗記」の重要性に自発的に気づいて、
しかもそのつらい「暗記」作業を継続できる人がいわゆる「勉強のできる人」だったりする。
 
たとえ「学問の基本を踏まえた系統的な指導要領」が出てきたとしても教育を受ける側に漂う「暗記」に重きを置く価値観は変わらない。
記事の提言をふまえて改革を行ったとしても、暗記の重要性はむしろ増す一方だと思う。
そしてそれだけ負担も増す。勉強のしんどさはその暗記のしんどさに尽きると思う。
繰り返しになるけどこのしんどさに勝てる人がすなわち「勉強のできる人」だと思う。
そもそも、この「教育を受ける側に漂う「暗記」に重きを置く価値観」に気づく人は少ないのかもしれない。
この価値観は言い換えれば「暗記できる人は暗記できることを理由に馬鹿にされることがない」ということができる。
 
「暗記に偏重した教育」と言う風に、特に学ぶ側が「暗記が悪いことだ」とも取れるような言い方をしてしまうと色々とまずいのではないか。
教育を行う側の持つべき理想的な教育観として「暗記させるだけではだめ」ということは否定しない、
むしろそうあるべきだ、そういう教師が必要なんだ!ということがあるのは確かにくみ取れるけど、
別に否定しなくてもよい学ぶ側の持つべき「暗記観」を否定することにつながりかねない。
 
そこは否定しちゃだめだと思うんだけどね。

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例え「学問の基本を踏まえた系統的な指導要領を編成」したとしても、誰もそれに従わなかったらそもそも意味がない。
と最初に書いた。
これは何も「要領に従うのは教師で学ぶ者は無関係」ということではない。
 
以下削除