今朝から話題の

とそれに対するトラックバックをちょろっと読んでみた。所詮ちょろっとしか読んでないので「近藤さんのお話にインスパイアされてこの記事を書いたのですが、近藤さんの述べたいと考える趣旨から相当に脱線していますので、私のモノローグ的な記事として読んでください。*1
まず読んでみて、「これを学級文化とか学校文化と絡めて話題に出来る人のエントリーも読んでみたいわー」とか思わされた。それはさておき...
去年辺りだったか、「学校とりわけ小中学校には不可解な文化があり、それらをひっくるめて"学校文化"とか"学級文化"というんだょ」ってなことを"学校文化"とか"学級文化"を否定的に見る文脈とともに教職課程で聞いたことを思い出しました。そのとき思ったのが、「いまの世の中こんなに個人個人の自由が重んじられているのにもかかわらず、何で学校の先生はこんな共同体絶対主義のようなものにのっとって生活することを求めるのだろうか」ということでした。もっとも、今回の記事に対するトラックバックを読む限り、「生徒は学校ではルールに従うべし」ということはつまり「学校において生徒は少なからず管理される立場にあるんだ」ということがあってのことだということが見えるのですが、それとは別の次元の話として、各教師が各教師の資質でもって学校や学級という場においてやたら「共同体絶対主義」にのっとって自分が行動して/生徒をさせているということがあって、それがなんとも気持ち悪いなぁと思わされたのです。この気持ち悪さはそういう教師がよく口にする、「全体責任」とか「学級づくり」とかいう単語の気持ち悪さに相当します。この気持ち悪さは必ずしも先ほどの文脈にあったような、「生徒は学校ではルールに従うべし」「学校において生徒は少なからず管理される立場にあるんだ」ということの否定につながるわけではない、と個人的には思います。この辺のことを考えていけばいくほど、学校を「権力と被権力」の文脈だけで語ることはなかなか難しいのではないかなーと思わされます。
『座右のゲーテ』で齋藤孝先生が述べられてたところの「個人の主観が何よりも尊重される現代」において、教育の問題を考えるということはすなわち「現代社会における"公"というものを捉え直す作業にほかならない」といったことは苅谷先生が『教育改革の幻想』で確信的に述べられているわけですが、果たしてその「"公"を捉え直す作業」は、学校における教師レベルでの「共同体絶対主義」を重んじる行動の肯定につながりえるのか?むしろそれは否定されるべきものなのではないのか?ということを切に感じます。切に感じるのですが、それを語る際にはかなりうまく語らない限り、「権力に対する鬱憤の吐露」という形で、言ってしまえば「活動家」然とした言説となって表に出てきやすくなるのでなかなかどうして難しいところなんですな。
さて、苅谷剛彦といえば『知的複眼思考法』の前書きだったかに「優等生タイプの諸分析」とでもいえるような、「学校」における生徒のタイプが実に鮮やかに描かれているのだけど、近藤さんは果たしてどんな生徒だったのだろうか。

座右のゲーテ -壁に突き当たったとき開く本
4334032508齋藤 孝

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知的複眼思考法―誰でも持っている創造力のスイッチ
4062566109苅谷 剛彦

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教育改革の幻想
4480059296苅谷 剛彦

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stars主張は‥
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