情報の私物化は放っておけば自然に起こる

だから対策をせねばならん。というお話。
自然に起こる情報の私物化情報の私物化への対策

 「運用管理の標準化にヒーローはいらない」。そういう人たちは、ヒーローでい続けるために情報を共有したがらない傾向になるらしく、情報とノウハウを共有して誰でも同じように運用業務をこなせるようにする改革を嫌がる。そんならというので、英国政府はそういう人を首切りの大ナタでぶったぎっていった

対策その1: 私物化する人をぶった切る

ここで大事なのは、「その情報を出すべきかどうか」を情報発信者が判断するのではなく、全ての情報を出しておいて、情報閲覧者が「その情報を読むべきかどうか」を判断すればよい、と考えることです。
ですから、「まるで興味の無い話をこんな場所に書くな」みたいな話が出た時には、どうすれば興味のある話だけを読む仕組みが作れるか、と考えるべきで、どうしたら興味の無い話を書く社員の口をふさげるか、を考えてはいけないと思います。
「情報の私物化の禁止」、「情報の取捨選択は閲覧者が行う」といった原則を継続的に徹底していくには、注意深く日々の業務を見直し続ける努力が必要です。

対策その2: 私物化できないような仕組みを作る

  • -

「自然に起こる」というのは、別に「ヒーローでありたい人がいる」というのが唯一の理由なのではなくて

単なる業務連絡になってしまって細やかなニュアンスが伝わらない無味乾燥なメールのやりとり、ROMだらけになってしまうメーリングリストというような問題は、悪意ある誰かが引き起こす問題ではなくて、ひとりひとりの「押しつけがましくならないように」という配慮、謙譲の精神が寄せ集まって生まれるものなのです。
よくよく考えてみると、これはメールに限ったことではありません。多人数が集まる場なら会議などでも同様にみられる現象です。「硬直化・官僚化」あるいは「ことなかれ主義」と言われ批判されるような沈滞した組織文化は、規模の増大にともなって勢力を増す「儀礼的沈黙」という善意の集合から生じてしまうものなのです。なんと理不尽なことでしょうか。
そして、増え続けるメールがあるしきい値を超えると、自己防衛反応としてメールを真面目に読まなくなります。実際、私も一時期メールが増えすぎて緊急のもの以外は一切処理しなくなるという「メール食傷」に陥ったことがあります。コミュニケーション過剰からくるストレスは鬱などの神経症のもとですから、正当な防衛行為だとは思うのですが、どちらに転んでも送る側も受ける側も不幸です。

実は「善意ゆえ起こってしまう理不尽なこと」という見方もある。
どちらにせよ「放っておけば自然に起こる情報の私物化」は、「それをする人をぶった切る」という 80 年代 ITIL 作成時の英国政府の荒技的なやり方を除けば、システム側で解消できる・解消すべき問題であるから、もし仮に「システムを作る・管理する立場にいる人」が情報の私物化に積極的であった場合はそれはもう悲惨なことに。

とくにこの場合、支店長という、ただでさえ権力をもった人間が情報を私物化しているのだから始末が悪い。なおかつ、恣意的に解釈された結果の情報が、どう考えても懲罰的な内容である。これでは、もう誰も社内ホームページにアクセスしたいと思わないだろう。しかも支店長はそうした負の効果を予測する能力に欠けている。
こうした悲劇が起こるそもそもの原因は、支店長が、情報それ自体の「客観性」と、情報の「恣意的」な利用を、はっきりとわけて考えられなかったからである。情報が、解釈の仕方と、だれが解釈したかによって、いかに恣意的で役に立たないものに変質してしまうか、そのことにあまりに無自覚だったからである。
僕は、情報システムによる効率化などと安易に唱える人を見ると、こうしたことを考えざるを得ない。いったいその人は、情報のもつ「客観性」と「恣意性」の危うさを理解しているだろうか?悲しいかな、情報システム好きの経営者にかぎって、情報の「客観性」を無条件に前提し、そこに自分自身がすべりこませた「恣意的な解釈」に無頓着すぎるのだ。
そういう経営者を頂く社員たちは不幸である。上にのべたとおり、だれも情報を信用しなくなるという致命的な弊害が社内に蔓延するからだ。「どうせ支店長が自己満足のために公開した情報だろう」。そうして、社員が一人、また一人と、情報システムから離れていってしまう。

悲惨。