続・かたちあるもの

を書くキッカケになった「手に触ってわかる、感触のある"モノ"をつくりたいよね」という就活中の雑談はとりあえずおいときます。

だが手書きすることで、書き手としての自分がだしぬけに顔を出すのだ。文章を仕上げ、情報を自分以外の読み手に伝達する経済の代償としてつい忘れていたあの感触が、再びやってくるのである。それは初めて原稿用紙が配られた教室のにおい、「自分の言葉で書きなさいよ」と馬鹿のひとつ覚えのごとく文句した担任の顔、時計とにらめっこしながら小論文の書き出しに苦しんだ受験会場の生暖かい空気、初めての恋文… そういった諸々のモーメントに存在していた、まごうことなき書き手の自分と、ひょっこり出くわすのである。
手書きとキーボード入力 文・vlad (Hacker Japan vol.3, 2003)

手で書く、ということはものすごく贅沢なことで、それをきれいな活字ではやく読みたい、という読み手の利便性よりも、書いているときに自分が感じるあの感触を優先させる行為なんですな。
このあの感触は、キーボードに向かって打っているのではなかなか得られない感触です。それがいいんですよね。将来「ペンでも字を書くよりも先にキーボードで文字を打った」という世代が出てきたらまた違ったあの感触がいわれるようになるのかもしれませんが、あの感触を(当然のことながら)手書きでしか得られていない自分としては、そんな世代は出てきて欲しくないなぁと思います。(これがジェネレーションギャップの元か

 私としては、便利になって選択肢が広がるだけで、これまで通りの「かたちあるもの」が残り続け、重要視され続けて欲しいと思う。自分達が物理的に触れる事が出来るという事は、それ自体が一つの情報だと思うから。

例えば文庫本が Web で見られるようになったらきっとものすごく便利でおそらく自分でも使うだろうけど Web でしか見られなくなったらそれはイヤですね。
逆にオリジナルのコンテンツが Web にあって、かつそれが比較的静的なものについては、印刷して書物にすることは技術的には可能で、実際に Blog の書籍化などもされてますけど、でもそれはまだまだ発展途上で、出版関係の本や雑誌を読んでみても色々と模索されているような印象を受けます(やり方の面でも技術的な面でも)。これは web がものすごい勢いで変化*1していることと表裏一体なのかもしれないです。
個人的には「Web→本」向きベクトルを持った出版のされ方がもっともっと手軽になされてもいいんじゃないかなーとか思いますし、出版関連の職に就いてそれを自分でも模索してみたいなーという気持ちもあったりします(とやっぱり無理矢理就活の話も絡めてみる*2。「かたちなきモノ」を「かたちあるモノ」として目に見えるように、手で触れるようにしてしまうという。それは果たして意味のあることなのか?と問われればさっきのキーボードで打つ文字と手書き文字の違いと同じようなことで、ほとんど"それを読む自分"のエゴ、「自分達が物理的に触れる事が出来るという事は、それ自体が一つの情報だ」ということを実感するためであって意味があるとかないとかいう問題ではないんだ、と答えるしかないんですが、それでいいと思っています。
一日が終わり、寝る前に布団に入って白熱灯をつけ、いつの間にか寝てしまうそのときまで本を読む、あの感覚がいいんですよね。まさに「それ自体が一つの情報」はこういうことだと思います。それは本に書いてある内容を知る、という意味での情報伝達とはまた違った種類の情報伝達だと思います。
はてなにも日記を本にしてくれるサービスがありますが、あれってどれぐらい利用されてるんでしょうかね?
もっと詳細に組めたり、凝った装丁ができたり、それこそブラウザで見えてるそのままを再現できたらすごいなーとか、あと多分これは想像するのも難しいけど ajax なコンテンツでもちゃんと紙上で再現できちゃったり...それだともしかしたら所有したくなっちゃうかも、とか思うんですけど、そうなってくるとおそらく先に書いた「それは(技術的にも)まだまだ発展途上で、出版関係の本や雑誌を読んでみても色々と模索されている」ことの範疇になってくるわけですな。

*1:あえて進化とはいわない天の邪鬼...

*2:だって元々就活関連のエントリーだったからね!