モヒカンネタの既視感

についてそろそろ書いてみるテスト。
ムラ社会」については実に38年前から述べられていることなんですね。

論理を容易に無視するこの相対的価値観は、現実より日本人と人と人との関係、やりとりに如実に発揮されている。
そして、特に知的な活動において致命的な欠陥を暴露するのである。そのもっとも良い例のひとつは、日本人による「批評」の確立の困難さであろう。
(中略)
作品自体について論じているのに、ちょっとほめると「あいつはオレに好感を持っている」ととられ、ちょっとけなすと「あいつはケシカラン奴だ」とくる。作品をとびこえて、人対人(パーソンパーソン)の直接の感情的出来事になってしまう。
講談社現代新書『タテ社会の人間関係 単一社会の理論』 P174, 中根千枝 著, 1967年

で、5年前にもなると「知的な活動」が「ネット上での活動」としてより顕わになったことを受け、その「ネット」に絡んだ言説や、いわゆる現在の「モヒカン族」像もかいま見ることができるようになるわけです。

それでもなお、「和をもって尊しとなす」に逆らうような言動は、いかに説得力ある発言であろうとも、「大人の場の収め方を知らない」と子ども扱いされるか、まるで好戦主義者の口振りのようにみなされてしまう。
そして、疎まれる。
「ネットやってる奴って、すべてとはいかないまでも、やっぱり実社会ではコミュニケーション不全みたいな奴が多いんだよね。オタクの精神構造っていうかさ。ああ、やだやだ」
なんて手垢にまみれた安っぽい評までいただいてしまう。
ネットは便所の落書き? 文・vlad (Hacker Japan vol.6, 2000)

ある意見を唱える人に反対する対象が、実は「意見」ではなく「人格」に転化されやすくなる。
つまり、意見と人格の分離ができなくなる。その境界が、徐々に曖昧になってくるのである。
かくて、理由のありそうな喧嘩や議論が、実は議論にはなっておらず、個人が、個人の体面をかけて掲示板に投稿している。
同上

今を生きる自分にとって身近な「知的な活動」は何かというとやっぱり「ネット上での活動」ぐらいしか思いつかないのだけど、そのネットがない何十年も昔の「知的な活動」における当時の「モヒカン族」像をかいま見ることができる、という点で中根千枝センセイの著書は興味深い。
それで「モヒカン族キーワードにある

それに、この文化衝突は最終的にはモヒカン族の文化が数で負ける戦なんだと思うよ。

という言説が少なからず説得力をもっているのは、そんな「ムラ社会」な日本社会の人間関係がもう何十年も前からずっと消えることなく存在しているからだ、という諦念にも近いような状況によるのが一番大きいんだろうなと思った。