「学力」を捨て、「ケータイ」へ向かった十代

ある程度の保身となり得る『学力』を子供たちが捨てるのには、理由がある。我々大人は、現代社会をよく理解し、従来の『学力』に変わる、今の時代に必要な『人間力』の必要性を認識してみてはどうだろうか。

この「今の時代に必要な『人間力』」というのが述べられている。
ブックマークを見てみてもそれを肯定的にみてる人が多かった。
でもどうだろう、今の10代で「今の時代」だけを見てるのはむしろ少数であって、「10年後」「30年後」「50年後」を見ている若者もいるということを忘れてはいけないんじゃないか。「今の時代に必要な『人間力』」に対立させて『学力』とそれを獲得するための「努力」とかいったものをきれいさっぱり捨てている、「大人が若者に迎合してどうすんのよ」と言いたくなるようなこの言説は 10 年後は全く価値のないものになっているのかもしれない。そもそもそれらを対立させて考えるのがおかしいと思う。
そして寺脇研よろしく(d:id:kt_kyoto:20051207:1133901732)、文章に漂う「自身の学生時代の陰さをはらすべく」感が否めないところがなんとも読んでいてしんどい。

しかしさすがに西洋人は、人生を享楽することの秘訣を知っている。彼らの学生生活は、一方に学問を勉強しながら、一方にスポーツをしたり、音楽を楽しんだり、異性とダンスをしたり、恋愛を語ったりすることで、青春の若い時代を、相当に享楽することができるのである。今の日本の学生らは、こうした西洋のカレッジライフを輸入している。だが昔の学生や青年らは、全くその青春時代を禁圧されてた。
(略)
しかしこうして育った日本人が、一生を通じて西洋人より不幸であるとは考えられない。なぜなら彼らは、老後において妻子眷属にかしずかれ、五枚蒲団の上に座って何の心身の苦労もなく、悠々自適の楽隠居をすることができるからだ。反対に西洋人は、老年になってからみじめである。子に親を養育する義務がなく、社会に敬老思想のない外国では、老いて生活力を失った人々が、家庭からも社会からも全く廃人扱いをされてしまう。
「老年と人生」- 萩原朔太郎

若いうちから自由を「過剰に」享受しすぎると先に待っているのは暗い老後。
でも老いてからでは若者が享受できるような自由は楽しめない。もはや若くないから。
そこで人は悩むのだけど、そんな悩みも「だっさいよね」とかいってすっ飛ばしちゃうような「今の時代に必要な『人間力』」言説はやっぱりどうも好かん。

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参考

擦り切れてるヒマがあったら勉強すればいいんじゃないかしらと