Student Apathy 2.0

Discommunicative - 大学における準ひきこもりという存在 経由。

筆者がこの症候群に気づいたのは数年前、ある男子学生との関係からであった。彼は安定した仕事を持つ両親と、同じく正社員として働く兄がいる比較的恵まれた家庭でやや過保護に育てられていた。大学の成績も生活態度も良く、非社交的で孤立ぎみなことを除けば何の問題もない学生であると思っていた。しかし就職活動の時期になり、他の学生がリクルートスーツに着替え、就職活動に汗を流す時期になっても、彼だけは全く活動を行わないのである。

「非社交的で孤立ぎみなこと」を一律悪しとする考え方があります。
「非社交的で孤立ぎみだと世の中で仕事はできない」という言説でもって団塊の世代は学生を煽動します。気持ち悪いです。全ての学生が一律その言説のみに乗っ取って就職活動を行う、ということはあらゆる意味での可能性を狭めているといえるのだ、ということに気づかないんでしょうか。
本人がそんな「非社交的で孤立ぎみ」であることを問題にしてない、というかそれを「非社交的で孤立ぎみ」としてマイナス方向にとらえていない中で、定職に就き、自分のパン代を稼ぎつつ、しかも世の中に大きく貢献している人はごまんといます。団塊世代が就職活動をする頃には存在しえなかったそんな類の仕事を「そんな仕事は仕事じゃない」とさえ思っているとしか思えないような偏見が団塊世代のこういう言説の内に存在してます。
就職活動に関しては「非社交的で孤立ぎみ」であっても全然問題ないんです。
というか「非社交的で孤立ぎみ」な中で深くものごとを考えたことがないんだろうなぁとしか思えないような人たちが多くいるということ、むしろそっちの方が問題だと思います。が、普段それは表面的なところだけを指して「学力低下」としてしか問題にされません。
面接をはじめ、ナチュラルハイであることを求められる場においては、それこそ一杯の珈琲を摂取すればなんとかなるもんです。それでなんとかならない人を「ひきこもりだ」といって「要治療」の烙印を与えるのは解決方法としてはベストでない気がしますが、ってそれは本題からははずれます。閑話休題
「非社交的で孤立ぎみ」であることを一律悪しとして「最近のわかものはなっとらん、こりゃこりゃ、のめのめ」とのたまう団塊世代像が浮かびますが、そんなのは無視しましょう。あ、無視すると怒られるので学生の皆さんだけは飲めるようになりましょう。
「非社交的で孤立ぎみなこと」はすなわち「プライベートな時間を大事にする」「個人の時間を大切にする」ことと思いっきり被っている部分があるわけで、そこを否定するのはよろしくないのです。いわゆる会社人間のもつつまらなさにつながります。気持ち悪いでしょう?
一律悪しとするのではなく、そこを認めた上で「ナチュラルハイに切り替えることも大事だよ」ということをいうべきなんです。

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先日、某放送局で役員面接を受けたときのことですが、面接官側のまさに団塊世代が、私の前に面接を終えていた某君(「非社交的で孤立ぎみ」な自分と違い、快活でしかも熱心にウン十社の企業を受けてるまさに「就職活動に汗を流す」好青年)を指して「最近の男子学生はイカンな、熱意がない」みたいなことを、あたかも「昔は男子学生たるもの会社に忠誠を誓って云々」と言いたげな雰囲気でのたもうていたらしいことをきいて、「あーくだらな」と思ったわけです。そこでの空気を読み切れずに団塊世代の手の上で踊らされた某君のゴメイフクを祈ります。ナムナム。
非社交的で孤立ぎみ、就職活動でもたかだか 3 社程度しか受けていないような「熱意のない」自分が、役員面接でそのような話を聞かされる、ということは団塊世代の求める「熱意」なんてたかだか知れてるんだということに他ならんのですよ。
そんな古臭い「熱意」をひそかに否定する要素を織り交ぜつつ自分自身で考えに考え抜いた「熱意」を、団塊世代に対してわかりやすい言葉で説明する、説明する機会があるというのが就職活動の醍醐味だと思うんすけどねぇ。